ヨハネ第一1章
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
ヨハネは、「いのちのことば」について記しました。初めからあったものであり、ヨハネが物理的にじっと見つめ、手で触ったものです。これは、永遠の存在者であり、人となって人の間に来られたイエス様を指しています。その方をいのちのことばと呼びました。これは、ヨハネ一章の言葉に対応しています。この方は、神からの永遠の命をもたらす方として言葉なのです。
ヨハネ
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
--
・「聞いた」「見た」→完了形。過去の行為や出来事によって引き起こされた「現在の状況」を表す。ヨハネがいのちの言葉を見て、聞いて、自分のものにしていることを表している。
・「じっと見つめ」「さわった」→アオリスト、直説法。これは、物理的な行為のこと。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
このイエス様を「いのち」また「永遠のいのち」と表現しています。
見たこと、聞いたことは、完了形で記されていて、一節の「聞いたもの」「見たもの」のことです。ヨハネたちに現された永遠の命のことです。「この永遠の命を、私たちは見たので」と記しています。彼は、イエス様によって現された永遠のいのちを見たので、それを証しし、伝えるのです。イエス様ご自身が永遠のいのちです。永遠のいのちがどのようなものであるかをイエス様が現され、それを見たので証しするのです。イエス様は、人としての歩みの中に永遠の命を具現されました。イエス様の言葉や業は、父の業として行われていました。聖霊に満たされて、一切肉にはよらず、父の御心を実現されたのです。そのように、父によって生きることが永遠の命です。すなわち、父と一つになって父の御心を行うことが永遠の命であるのです。それは、また、父の高い評価を受け、永遠の栄光を受けることになります。信者の場合には、イエス様を信じて、自分のうちに受け入れ、御心を行うことです。それが永遠の命です。そして、永遠の資産としての報いを受けることです。それも、永遠の命です。
ヨハネ
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
--
イエス様の肉を食べ、血を飲むことは、イエス様を信じることです。イエス様がその人の心に住まわれることを信じるのです。そのような人は、イエス様のうちにとどまり、イエス様はそのような人にとどまられます。それは、イエス様が父によって生きておられたのと同じです。それがイエス様を食べることの意味であり、永遠に生きることなのです。それを永遠のいのちと言っています。終わりの日によみがえらせることについて語られたのは、永遠の栄光を与えることを表しています。よみがえることは、肉体にあって経験する肉に死に、御霊によって歩むことを表す言葉ですが、その完全な実現は、体の贖われる時であり、そこを目指して生きるのです。そして、その時、永遠の栄光を与えるのです。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
ヨハネは、見たこと聞いたことを伝えますと言いました。それは、永遠の命について伝えることです。その目的は、御心を行うことにおいて一つとなるためです。ヨハネたちは、永遠のいのちを見て、聞いて、伝える者として、イエス様が父と一つであられたように、イエス様と一つになって歩んでいました。御心を行うことにおいて一つになっていたのです。伝えられた人たちも御心を行うことにおいて一つになるためです。
そのことは、ヨハネたちが御父また御子イエス・キリストと御心を行うことにおいて一つになっていたことに基づきます。そのように、信者が主イエス様によって生き、御心を行うことを求めるならば、一つになるのです。
・「交わり」→共通のものを共有すること。聖書では、御心を行うことにおいて一つとなること。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
ヨハネは、イエス様と同じ喜びを求めていました。
ヨハネ
17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。
17:12 彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。
17:13 わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。
悪魔の誘惑があり、肉の働きがある中で、父が守ってくださるように願いました。それは、彼らが一つになるためで、その一つというのは、父とイエス様の関係と同じであることを示されました。それは、父の御心行うことにおいて一つであったことです。そのように、信者が御心を行うことにおいて一つになるために、これらのことを話されたのです。
彼らが一つになるために話されましたが、それは、イエス様の喜びが彼らの中にあって満ち溢れるためです。
--
ヨハネも、その喜びを求めていました。信者が御心を行うことで一つになるのを見ることを期待したのです。
1:5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
神は、光であり、神には闇が全くないことは、キリストから聞き、彼らに伝えたことです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
そのことを踏まえて、もし、神と御心を行うことにおいて一つになっていると言っていながら、闇の中を歩んでいるならば、嘘を言っており、真理を行なっていません。神に闇がないことは前節に取り上げています。神と一つになっているならば、闇の中に歩むことはあり得ないのです。
真理と言っているのは、表面的に神の言葉に従っていることと区別するために、神の御心を行うことを真理を行うと言っています。
なお、これは、神と御心を行うことにおいて一つになっている状態のことです。肉にはよらず、御霊によって歩むんている時のことを言っています。
1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし私たちが、神が光の中を歩んでいるように、光の中を歩んでいるなら、信者同士も、御心を行うことにおいて一つになることができます。
そして、神の御子イエス様の血は、全ての罪から私たちを清めます。これは、信者の歩みが清められることについて語られています。御子の血は、犠牲の偉大さを表していて、その愛に応えて信仰に歩むことで、御心を行う者となるのです。そして、光の中を歩みます。その歩みにある時、御霊は、さらに強く働き、さらにキリストに愛に応えての信仰を強め、内住の罪の働く機会をなくし、罪から清められます。
1:8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
その一方で、もし、自分には罪がないと言うならば、私たちは自分自身を欺いています。それは、真理から外れたことです。神と一つになって歩んでいる時、罪を行うことはありません。しかし、肉が働いて、罪を犯すことがあるのです。それを否定することは、偽りです。
1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
そのような場合でも、自分自身の罪を告白するならば、神は、その罪を赦し、私たちを全ての不義からきよめてくださいます。告白する時、赦されない罪はなく、清められない不義は、ないのです。
1:10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。
もし、罪を犯したことがないと言うならば、神を偽り者とすることになります。それは、神の言葉に反したことです。神の言葉を持っていないのと同じです。
ヨハネは、この手紙では、信者が御霊によって歩んでいる状態について記しています。それが、信者の正常な状態なのです。それとともに、ここでは、肉が働いて罪を犯すことについても触れています。罪がないと言うことは、誤りですが、それは、肉にある状態です。御霊による歩みとは区別して記しています。この二つを区別して考えないと、六節の「1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」と記されていることを理解できません。